いわしのむれ

はきだめ

不安を書く。研究のこと。

 こんにちは。ブログ作ってしもた

基本的に、

  ・大学院(研究)のこと(真面目で全然おもんない)

  ・KinKi Kidsのこと(死ぬほどハマってる)

  ・その他(友達とかお酒とか)

 ぐらいのテーマに分けて書こかな。その他が一番多そう。

 日記というか、好きなときに好きなことを書こうと思います。

 

 

今日は研究について。おもしろくもなんともない話をする。

 

 

私は「平安後期、鎌倉初期の坊門局の書写活動からみる女性の活躍」という意味不明にクソ長いテーマの研究に取り組んでいる。私の顎変形症の診断名も「上顎前歯の著しい突出を伴う骨格性上顎前突症」という意味不明にクソ長いものである。意味不明にクソ長いものに縁があるのかもしれない。

 

 大学院に入って約一ヶ月が経った。中古時代のゼミの新入生は私一人だった。が、研究というものは結局一人でするものだと、さみしさは特になかった。学部生時代からお世話になっていた先生に修士論文も見てもらえるのだし。私は三回生の頃に出会った研究分野に、自分なりにではあるが熱心に取り組んできたつもりであった。私がしていたのは書誌学的な研究である。物語や和歌が書かれていた料紙そのもの、また、それを書いた者の筆蹟についての研究である。卒業論文では藤原俊成とその娘の坊門局の筆蹟をただひたすら見較べていた。そのときは楽しくて必死だった。「めっちゃ研究してるみたい」と、自分に酔っていたかもしれない。

 私の属す研究科には四つの時代区分と、八つのゼミがある。時代区分は「上代(古代~奈良)文学」「中古(平安~鎌倉)文学」「中世文学(室町~江戸)文学」「近代(明治~現在)文学」の四つで、それぞれに二つのゼミがある。合計八つ。上代ゼミには新入生はなし。それ以外のゼミには三人ずつ新入生がいた。入学式の日、中世ゼミの教授に誘われ、新入生五人と修士二年生、博士一年生の方と研究室でお酒を飲んだ。先輩含め、中古ゼミの人間は私だけだった。学部生時代から、中古ゼミは人数も少なく、教授が高齢なこともあって、非常に閉鎖的だった。なので、ここで初めて私は、私以外の、「大学院に進むほど国文学の研究に夢中になっている人間」に出会ったのだ。

 そこで打ちひしがれた。飛び交う研究の進捗、今後の展望、自分の専門外にも関わらず豊富な知識。私は何も食い込めなかった。日本酒をなめながらニコニコして、時にはそれっぽく真面目な顔を作って、何も分からないくせにウンウン頷いてみせることしかできなかった。そのときの惨めさ。「十四代」という、日本酒好きならのどから手が出るほど良い酒を、知らないうちに五杯も飲んでいて、それでも、自分の愚かさに全く酔えず、ただただ頭は冴えていた。私は何をしにここに来たのか。就職せず、大学院に来たのはなぜか。研究がしたかったからだ。何の研究をするのだ。具体的に何をするのだ。冷え切った頭で考えても、何から始めてどこへ向かえばいいのかも分からなかった。私はこんな所に来て良かったのか。大学院で研究をする資格はあるのか。「書誌学的な研究だから」と、古今和歌集の中身も源氏物語の本文も詳しく知らない。伊勢物語の成立。諸本とは。系統とは。注釈書の云々とは。筆蹟の研究と言いながら、藤原俊成と定家と坊門局以外の筆蹟は読めない。俊成、坊門局と言いながら、その血筋である冷泉家について何も知らない。研究の仕方もなにもかも、時代が違えば異なってくる。だから具体的には分からないけれど、自分がやってきたことがなんと甘ったれたものなのだろうか、と、本当に絶望した。


私には圧倒的に知識が足りなかった。


 彼氏と帰宅した。電車の中で、「私は研究する資格があるのか。このままでいいのか」と、ポロッとこぼした。この時私は甘えていて、「大丈夫、がんばれ」「好きなようにやったら」というような慰めの言葉を無意識のうちに求めていた。しかし理系の大学院二回生で、私とはいろいろな考え方がまるっきり違う彼は少し考えてから言った。

 

「君の研究が社会にもたらす利益はなに?」

 

 ……

 

 …いや、正直、うるせえ!!!!励ませよ…ころすぞ、、、、と思った、正直。激ヘコみしてる彼女の背中を優しく撫でて絹のようにさらさらと私の心を包み込む言葉を投げかけろよ、と拗ねた。

 その日は拗ねたまま帰った。しかし、彼の言葉は真理である。私は何のために研究しているのだろう。就職に有利だからとか、企業の利益に直結する技術だからとか、そんなものではない。学部時代は「楽しいから」で済んだ。しかし、大学院にまで進み、就職に不利になるような勉強をするのだ。もう趣味では済まない。いや、結果的に趣味の領域に終わったとしても、いま、自分はその心意気で臨んではいけない。「自らの研究が文学史においてどのような役割を持つのか」。これを真剣に考え、その役割を果たさなければならない。彼氏からのクソ辛辣な一言は、絶望だけしていた私に考える力を与えた。ムカつきながらも考えた。そうして出てきたのが冒頭にも述べた「平安後期、鎌倉初期の坊門局の書写活動からみる女性の活躍」というものである。平安、鎌倉初期の社会は、言わずもがな男社会である。女性はひっこんでいる。皇女や御息所以外は名前も出てこない。みんなあだ名である。紫式部清少納言赤染衛門も、私が研究している坊門局も、みんなあだ名である。しかし、あだ名であろうとも名前が残るのは奇跡に近い。坊門局の父であり、「和歌の神」として今に至るまで崇められている藤原俊成には五人以上の娘がいたが、名前が残っているのは坊門局ただひとりであることを見るとそれがよく分かる。女性の強さ。如何なる境遇においても、それを受け入れ、悩みながらも、自身を見失わず生きる強さっていつの時代も、まあ男女関係ないかもしれないけど、今の時代にだって通じるものだよなあ、とかなんとか考えた。もう、メッチャ考えた。他の何も手につかないぐらい考えた。本当に疲れた。褒めて。

 

 書くの疲れてきた。けど、思ってることや不安に感じてきたことを文字に表すと、考えが整理できて楽になるな。

 

 友達のみんなが社会に出て頑張ってるのと同じように、私も私の研究を、少しでも良いものに出来るように頑張ろう。必死で二年間すごそうと思う。

 

 

 

おしまい