いわしのむれ

はきだめ

私へ。逃げたくなったら読め

まとまりのない文章を書く。

お前の空虚な自信と逃げだけの二年間と、それを乗り越えた今年の決意を書くから、辛くなったら読め。

 

この二年間は、地獄だった。

知識も無いのに、自信だけあった修士課程。自分の書いた論文なんてひとつも読みたくないし、今すぐこの世から抹消したい。しかし消えないので、戒めとしておいておく。

そのときの教授は、この分野の先駆者的存在だった。でも病気をされていたし、高齢だったのもあって、指導という指導はされたことがなかった。最後まで「いいんじゃない」と言われ続けた。修士論文の口頭試問で、最後の最後に、「理解不能な点が多々ある」と言われた。「いいんじゃない」の言葉を信じてしまった私はすでに博士課程への進学を決めていた。発想だけはよかったので、奇跡的に学振のDC1をとれた(これはマジでシンプルに奇跡)。中身はないのに、今思い返せば、中身は空っぽなのに自信だけあった。この研究をする事の意義すら、答えられなかった。突き落とされた。というより現実を見せられた。博士課程からの指導教授になる予定の先生からは「素人くさい」と一蹴された。絶望した。博士課程の入学試験は一週間後だった。自分の将来を間違えたと強く思った。なにも手につかなかった。でも、学内進学だから、博士課程の試験には合格した。そのときの面接は、怖くて怖くて手の震えが止まらなかった。緊張ではない。自分の無力さに絶望したあと、自分のクソみたいな研究についてもう一度説明しなければならないということがあまりにも怖かった。面接では、教授の皆が優しかったような気がするが、その恐怖であまり覚えていない。

 そしてコロナだ。家から出られない。なにもできない。いや、コロナになって、全員が身動きできない状態になってよかったのかもしれない。わたしは博士課程進学後、自分の研究を全く進められなかった。もう自分の研究に全く自信を持つことができなかった。怖くて研究できなかった。教職の勉強だけは進んだ。はやく教員免許を取得して大学を出たかった。コロナなので、ゼミもない。教授は全然分野外の論文を書くようにとだけ言ってくる。とまどった。怖かった。そんなことしたくなかった。どうしていいか分からない、自分の研究を救ってほしかった。でも、言いようのない恐怖で、そんな相談は出来なかった。そして夏に教授が急逝した。私の指導教授はいなくなった。わたしは本当になにもしなくなった。学振もらってるのが罪悪感を本当に助長させた。

 修士課程の時の教授が退官なさるのと入れ替わりに、新しい先生がこられた。二年目から本格的に私の指導教授となってくださるこの先生との出会いが私を大きく変えた。

 1年目の12月、なんとか一つでも業績を残さねばと焦った私は、修士論文に少し手を入れたものをその新しい先生にメールで送り、指導を求めた。すでに口頭試問でぼろくそに言われている内容なので、恐ろしくて送信ボタンを押すのを何時間もためらった。数日して直接指導してくださるということで、研究室に伺ったが、やはり厳しい意見をいただいた。博士課程の人間が、こんなにめちゃくちゃな論文を、期日ぎりぎりに見せてきたら、やる気の無い人間と見られるのは当然のことなのだが、あまりに私が沈みきっていたのか、先生は戸惑ったように「どうしたの?」と言ってくれた。なんだかそこで私は自分のダメな論文に、赤でされた指導の書き入れを凝視しながら泣いてしまった。もうこんな研究全然ダメで、論文として投稿できるわけないって分かってるんです、でもどうしていいかわからなくて、もう研究する資格がわたしにはなくて…と、頭に浮かんだことをそのまま吐き出してしまった。先生はそれについて特に何か言うでもなく、とりあえず論文を手直ししてまた送っておいでと言ってその日はおわった。その日は研究室から動けなかった。やっぱり、今すぐここから逃げたいと強く思ってしまった。広い研究室にひとりで、ワンワン泣いた。土曜日なのに彼氏が車で迎えに来てくれて、家まで送ってくれた。研究やめたい、と言った。結局、締め切りを過ぎても私は論文の手直しをすることは出来なかったし、先生にメールを送ることも出来なかった。大学をやめたいとおもった。

 大学をやめたいという気持ちが強くなって、三月くらいに、先生にメールを送った。論文を送ることが出来なかったことの謝罪と、今後のことについて相談させてください。と。メールはすぐに返ってきた。どんなに怒られるのだろうとおもった。けれど、内容は「心配していました。研究のことでも、そうじゃなくても、何でも聞きます」というものだった。信頼できる先生だと思った。すぐに面談の日を決めて、会いに行った。

 研究が辛いこと、この一年なにもできなかったこと、今回の論文も本当は出したくなかったこと、大学院をいますぐやめて教職に専念したいこと、全部話した。先生は私の話が終わるまで全部聞いていてくれた。そして、少しずつでいいから、形にならなくてもいいから、なにかやってみようということ、大学をやめるのは、三年間の単位を取得してからの退学でもいいんじゃないかということを言われた。ひとつひとつ、私の気持ちをくみとりながら話してくれた。この先生の言うことなら、信じて頑張れるかもしれないと、少しだけ思った。研究を続けていけるとは最後まで思えなかったけれど、あと二年間、必死で頑張ってみようかと考えるようになった。

 四月になった。毎週、形にはならないけれども、何かを調べて課題を見つけ、A4用紙にまとめて話し合うというゼミの形態をとった。学生が私しかいなかったため、一対一であったから、このような指導形態を取ることができたのだろうとおもう。はじめはA4用紙の半分も書けなかった。それでも先生はそれを受けてしっかり指導をくださった。次の週までの課題が見つかった。そしてまた次の週に新しい課題がみつかる。毎週何かしらの進捗報告をしなければならないのは決して楽ではなかったが、自分が、何か成果をなそうとしているこの状態が、あまりに充実していて、昨年度と比べてイキイキしていたとおもう。私は先生にだけなら自分の研究を見せても怖くなかった。全てを受け入れて、指導してくださるという信頼があった。一年経ち、私は論文を一本書いた。今度は成果として雑誌に投稿できた。しかし、発表は出来なかった。予定はあったが病気になってしまい、自体を余儀なくされた。論文投稿はしたが、直接自分の研究を人前で発表する機会はまだなかった。正直、それが一番怖かった。論文にして、先生にも「あなたはよく努力している」と言ってもらえた。けれど、それでも、自分を信じることが出来なかった。怖かった。修士論文の口頭試問があまりにトラウマだった。私はまだ「三年で大学院をやめるため」に研究成果を残していた。それなりに充実はしたものの、自分に自信を持つことはなく、博士課程二年目が終了した。

 三年目になった。わたしはこれまで後輩がおらず、同期も先輩もいなかったのでゼミは先生と私の二人だけで会ったことは前述している。しかし、今年は後輩ができた。修士課程に数人はいってきた。人数が増えたため、週に一度、同じ分野の二つのゼミの合同研究会を開こうということになった。私以外はみんな修士課程の1年生なので、一番はじめの研究発表は私が行うのがよいだろうということになった。口頭試問以来、授業の一環とはいえ、指導してくださる先生以外の先生や学生に、自分の発表を聞かれる機会がとうとうやってきた。私は本当に怖かった。先生は、「大丈夫」と言ってくださる。それでも、本当に怖かった。資料を作りながら手が震えた。当日は五月のそれなりに暑い日だったが、それを差し引いても引くくらい汗をかきながら話した。大汗をかくのに、手はぶるぶる震えていた。それでも40分、発表した。

 初めて私の発表を聞いた別の先生が、いろいろと質問をした。私は受け答えた。議論が進んだ。活発な議論だった。私の研究内容は同じ分野の中でも少し特殊な物なので、修士課程の1年生たちは置いてけぼりだったが、指導教授とその先生と私で、50分ほど議論を続けた。誰も私の発表を「素人くさい」とは言わなかったし、頭から否定することはなかった。発表の最後、わたしの発表を初めて聞いた先生が、一言、

「よくできてる」

と言った。この六文字が、この二年の地獄から私を救い出してくれた。

 指導教授以外の人も、私の発表を認めてくれるんだ。わたしは、そこまで成長できているんだ。と、このとき本当に、初めてそう思えた。知らないうちに自分に実力が着実についていて、それがトラウマのせいで見えなくなっていたことに気づいた。この時、「研究を続けたい」と初めて思った。六月の教員採用試験に応募している。けれど、もうここ数ヶ月、自分は研究しかしていなかった。

 学振は三年で切れる。学費は半額程度になるとは言え、生活は苦しくなる。でも、博士論文を書きたい。自分の研究を、形にして、大学で働きたい。恥ずかしい話、これが初めてできた夢である。ほんとうに、初めてできた。これに向かって、がむしゃらに頑張りたいと、心から思えた。二年間の靄がいまやっと晴れた。こんなにすがすがしい気持ちになったのはいつぶりだ。初めてかもしれない。純粋にひとつのことを頑張りたいと思えたのは、逃げでなく、本気で、やりたいとおもったことは、はじめてかもしれない。嬉しい。夢ができて、本当に嬉しい。二年間、よく耐えてよく頑張った私。

 たぶん、研究が行き詰まったり、いろいろ批判をもらったりしていやになって逃げたくなるときもあると思う。わたしには逃げ癖がある。でも、はじめてできた夢なので、ここを読み返してくれ。がんばってくれ私。