いわしのむれ

はきだめ

無知からくる「根性論」

 サッカーW杯、日本がベルギーに負けた。「負けるべくして負けたのだ」と言う意見を見ればふむふむそうなのかと思い、「日本の実力は世界に並ぶと見せつけたのだ」という意見を見れば、ほうほうたしかにそうだと頷くような、私はそんな人間だ。きっとこれは私が、サッカーについての知識が浅いからだろう。予選リーグの最終戦ポーランドとの試合で、日本が後半何分にもわたってパス回しをしたことも、きっと、サッカーの世界では決勝トーナメントに進むための唯一の道筋だったに違いない。非難されても今自分たちに出来る最善の策だったのかもしれない。きっと彼らを責めない人は、理屈でそれが分かっているのだろう。分からない我々は、「根性論」に行き着くのだろう。分からないから、馬鹿の一つ覚えみたいに、サッカーとは全く関係ないはずなのに「自分の体験に置き換え」て、「試合に勝って勝負に負けたのだ、情けない」などと分かったような口をきくのだ。きっとこれが大相撲なら、私はこうはならないだろう。横綱白鵬が、優勝のかかった取組で、まっすぐ突進せず身をかわして勝ったとする。周りの人間は「横綱たるもの卑怯な手で勝って嬉しいのか」と批判する。けれど私はその意見に流されない。それが相撲というものだ、横綱の動きに対応できなかった対戦相手が弱かったのだ、と断言できる。それは、私が多少なりとも、大相撲についての理解があるからだ。くだらない「根性論」など持ち込まず、理屈で分かっているからだ。誰もが理屈で分かれば、自分の尺度で物事を考えなければ、むやみに傷つく人間は現れないだろう。理解したい。分からないことを「理解したい」という気持ちを持ち続けていきたい。分からないことを分からないままにして、つまらないと遠ざけてしまうような人間にはなりたくない。きっと理解したところで共感できないことももちろんあるだろうが、それでも理解したい。サッカーの予選リーグの日本代表のプレーを見てイライラ為てしまった自分が悲しい。小中高とサッカーをしてきた彼氏は、「あれでよかった。確かにつまらない試合だったかもしれないが、決勝トーナメントに進むため。負けた方が良かったのか?」と平然と言っていた。しっかり理解しているのだ。この後、決勝トーナメントで、決して日本がこんな試合をしないこと、決死の覚悟で戦うことを分かっていたのだろう。

驕り高ぶらず、それでも自信をなくさず生きるというのはなかなか難しいが、大切なことだ。