いわしのむれ

はきだめ

柿本人麻呂

 奈良時代歌人柿本人麻呂という人がいる。めちゃめちゃ歌を詠むのがうまくて、後の世で「歌聖」とか呼ばれている。例えば、奈良時代に詠まれた歌で作者が分からず、めちゃめちゃいい歌だった場合「ええ歌やから柿本人麻呂が詠んだに違いないでコレ!」と周りから言われて、なんの根拠もないのに柿本人麻呂作になったりする。「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 一人かも寝ん」という、百人一首の彼の歌もまた、実は作者未詳のいい歌で、後々になってから彼の歌であろうと言われたものなのだ。

 あの世で柿本人麻呂はどう思っているのだろう。「光栄だなあ」か、「こんなクソ歌、俺が詠んだことにすんなや」か。

 考えても分からないことに思いを馳せるのは、不毛だが楽しい。

 

 昔の人は結構適当で、書写したものも、誰が書いたか分からないときは適当に有名な人が書いたことにしている。「伝紀貫之」とか「伝藤原俊成」とかがそうだ。申し訳程度に「伝」をつけている。彼らが本当に書いたものと比べると一目で筆蹟が違うのが分かるから、どれだけ適当かよく分かる。

 平安後期から鎌倉初期にかけて西行という歌人が活躍するのだが、彼も優れた歌人として有名で、いろいろな書写本を残しているのだがその全てが「伝西行」なのだ。しかもその筆蹟が百種類ほどに分かれている。適当かよ。まあ有名な人が書いたことにすると高く売れるからなんだが。昔の人も必死やな~。

 

 サッカー始まったし見よ。

 

わりと信じちゃうタイプの人間

 

「明日、15:45、大地震が起こる」と未来人が警告している。現代に生きる無力な私はおびえて震えて防災リュックを用意するしかない。阪神淡路大震災を我慢してくれた築ウン十年のこの小さな家は、次の揺れにはきっともう耐えられないだろう。

 

 

 それでも結局なんとなく今日を生きた。あしたが私の最期の日になるかもしれないのに、一日中ゴロゴロとゲーム実況を見ながら、来週のゼミの発表について悩み、風呂に入ってバイトに行った。バイト仲間に地震のことを告げ、こわいこわいと怯えながらメロンパンを食べて帰った。

 

 私は恐がりなのでめちゃめちゃ怯えている。全然死にたいとか思わないし、出来ればボケずに長生きして、苦しまず幸せに死にたい。せめて死ぬ前には彼氏と一緒にいたいと思ってさっき電話したら、「はァ~? 一日中実験あるし無理」と、私の命より実験を優先されてしまった。

 無慈悲~~~~~~~~~~~~~

 

RMKが似合うタイプの人

 電気もつけずに洗濯物の山から自分のキャミソールを引き抜いて、着ようと部屋に持っていったらお父さんのボクサーブリーフだった。

 暗闇で手探りしても何もいいことがない。

 

 ゴールデンウィークが明けて久しぶりに学校に行った。

 共同研究室にはいつも五人ほどが勉強したり食事をしたり雑談をしたりしている。休み明けにもかかわらず、何も変わらない研究室の風景であった。再来週の発表に向けての資料を作っていると、「あべちゃんやんなあ?」と話しかけてくれる人がいた。一つ上の、あまり話したことのない先輩だった。ぽやぽやした、そのかわいい人の机の上には、遠藤周作の論文全集が堆く積み上げられていて、ふんわりとセットされた淡い茶色の髪に覆われた頭の中には途方もない知識が詰め込まれているのだろうなと、少し怖くなった。

 

 近代文学は本当に難しい。先行研究が膨大にあるし、同時代評(その小説の連載当時の評判)も気にしなければならない。論じ方も様々だ。作者とその作品を完全に切り離して考えるテクスト論もあれば、その逆もある。その先輩は遠藤周作の書斎の本棚にあった数千冊の小説の作品名と作者名を一冊一冊調べていた。遠藤周作が何を読み、誰に影響されたかを探っていた。途方もないことだ。しかし、ここまでやっても何の成果もないことがある。また違う方法を探す。そしてまた次へ、と進む。好きでないとできないことだ。私は遠藤周作について何も知らないので、「昔読んださくらももこのエッセイに、遠藤周作出てきてましたよ」ぐらいしか言えなかった。それだけで「えっ!?ほんまに? 今度絶対読む!教えてくれてありがとう!」と言われた。この人は本当に遠藤周作が大好きなのだろう。

 私も平安文学が大好きだから頑張れている。人間関係が本当に面倒だけども、勉強が好きだから学校に来ている。は~~~私の嫌いな人全員学校やめろよ~~と思いながら、学校に来ている。私はまじで偉い。人間国宝でしかないと思う。まずは知識を一つ一つ増やすことだ。この分野では誰にも負けないというようなところまでいくことだ。二年間でできることをはっきりと決めてやろう。

 

 と思いつつも、今読んでいる源氏物語にハマってしまって研究に手がつかない。源氏物語についても、もう少し読んだらブログに書いていきたい。

 

 お父さんのボクサーブリーフはたたんであげた。やっさし~~~

思い出を網で焼く

 一方は昨日のことのように鮮明に覚えていても、もう一方はすっかり忘れているということがよくある。私はこういう性格だからか、前者の立場になることが圧倒的に多い。「いじられキャラ」は信頼関係のある者同士しでしか成り立たない。つまらない関係性の人間から言われたアレコレは、私は案外覚えているし、それを言った彼彼女とは決して距離を詰めようとは思わない。とはいってもそれは膨大な会話のうちの一部だ。だいたいのことはそのうち忘れる。鮮明に覚えていると言っても、笑い話として昇華していることも多いのだ。

 ところで、私が後者の立場になったことがある。今日五年ぶりに焼肉を食べに行った男友達との、十一年前の出来事だ。

 その彼とは小学校、中学校、高校と全て同じ学校に通っていた。しかも、なんと、私は小学校二年生から中学一年生の間、ずっと彼のことが好きであった。彼は裏表がなく、決して人の悪口を言わない人間で、はっきりしていた。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、とはっきり言う男だった。男気溢れてるな~。とかなんとか思って、漠然と好きだった。私は当時非常にシャイで、好きだと告げることはもちろん、所謂「好きな子はいじめたくなる」というアレで、彼に軽口をたたいたりしていた。

 しかし、中学校に上がると、彼が私と全く話さなくなった。むしろ避けられていた。陰口をたたくような人ではないので周りの反応は特に何もなかったが、中学三年間と、高校一年生、同じクラスだったにも関わらず一言も口をきいてくれることがなかった。

 高校二年生になり、彼とはまた同じクラスになった。そして席替えで同じ班にもなった。調理実習があった。私は彼と芋を切る作業をしなければならなかった。どうしても話さなければならない状況になり、仕方なく聞いてみた。

「あのさあ、私、なんかしたかなあ。私のこと嫌いやんな」

 すると彼はまったくの無表情で私を見、めちゃくちゃため息をつき、四年ぶりに私に向かって口を開いた。

「俺小6の時の帰り道にお前に冗談半分で後頭部を魔法瓶で殴られてお前の人間性を疑ってからお前が嫌いから喋りたくないねん」

 そう一息に言った。私はナチュラルな流れで土下座をしていた。いや、そりゃ嫌いになるよね。私は何も覚えていなかった。びっくりした。犯罪者一歩手前の行為を好きな人相手にした上にそれを全く覚えていなかったなんて。彼は陰口も言わず、ひっそりと四年間私のことを嫌いだったのだ。めっちゃおもろい。ほんまごめん。

 私は四年分、死ぬ気で謝った。ごめん、ちゃうねん、いや違わへんけど。好きやってん!なんかあるやん?好きな人はいじめたくなる心理!あれやねん!ほんまごめん!許して!!!!許してください!!!!!!!!!!!!!という具合に。

 彼は「えっそれはキモい…」と呟いてから許してくれた。それからは円満に、友人として卒業までの二年間楽しく過ごすことができた。彼が正直で裏表のない性格だからこういう結果になったのだろう。私なら友達という友達に悪口を言いふらす気がする。

 

 彼は今でもはっきりした性格で、会社の同僚に毎週のように飲み会に誘われても「俺とお前は友達ではない」とめちゃめちゃ無慈悲に断るし、上司との面談で上司があくびをしていると「話してる途中にあくびとかムカつくんでやめてください」とめちゃめちゃに説教したりする。男気が溢れている。ちょっとアホやと思う。

 私はあまり人からの誘いに断れない。特に立場が上の人からの誘いは断れない。あんまりおもしろくないなあと思っても、ニコニコ笑ってその場にいることは出来るけれど、たまに、彼の性格がうらやましくなる。彼に言わせると「俺は死ぬほど自分勝手やからな」らしい。まあ確かにそうなんだけれども、いろいろな心の引っかかりを投げ捨ててばっさり言葉にし、あとに引きずらない。決して裏で悪口を言わない。彼のさっぱりしすぎた生き方を、私は尊敬している。

 「社会人になったらまた奢ってくれや」とさっとお会計を済ませてくれた男気溢れる彼と、また五年後、何かおいしいものを食べに行きたい。

不安を書く。研究のこと。

 こんにちは。ブログ作ってしもた

基本的に、

  ・大学院(研究)のこと(真面目で全然おもんない)

  ・KinKi Kidsのこと(死ぬほどハマってる)

  ・その他(友達とかお酒とか)

 ぐらいのテーマに分けて書こかな。その他が一番多そう。

 日記というか、好きなときに好きなことを書こうと思います。

 

 

今日は研究について。おもしろくもなんともない話をする。

 

 

私は「平安後期、鎌倉初期の坊門局の書写活動からみる女性の活躍」という意味不明にクソ長いテーマの研究に取り組んでいる。私の顎変形症の診断名も「上顎前歯の著しい突出を伴う骨格性上顎前突症」という意味不明にクソ長いものである。意味不明にクソ長いものに縁があるのかもしれない。

 

 大学院に入って約一ヶ月が経った。中古時代のゼミの新入生は私一人だった。が、研究というものは結局一人でするものだと、さみしさは特になかった。学部生時代からお世話になっていた先生に修士論文も見てもらえるのだし。私は三回生の頃に出会った研究分野に、自分なりにではあるが熱心に取り組んできたつもりであった。私がしていたのは書誌学的な研究である。物語や和歌が書かれていた料紙そのもの、また、それを書いた者の筆蹟についての研究である。卒業論文では藤原俊成とその娘の坊門局の筆蹟をただひたすら見較べていた。そのときは楽しくて必死だった。「めっちゃ研究してるみたい」と、自分に酔っていたかもしれない。

 私の属す研究科には四つの時代区分と、八つのゼミがある。時代区分は「上代(古代~奈良)文学」「中古(平安~鎌倉)文学」「中世文学(室町~江戸)文学」「近代(明治~現在)文学」の四つで、それぞれに二つのゼミがある。合計八つ。上代ゼミには新入生はなし。それ以外のゼミには三人ずつ新入生がいた。入学式の日、中世ゼミの教授に誘われ、新入生五人と修士二年生、博士一年生の方と研究室でお酒を飲んだ。先輩含め、中古ゼミの人間は私だけだった。学部生時代から、中古ゼミは人数も少なく、教授が高齢なこともあって、非常に閉鎖的だった。なので、ここで初めて私は、私以外の、「大学院に進むほど国文学の研究に夢中になっている人間」に出会ったのだ。

 そこで打ちひしがれた。飛び交う研究の進捗、今後の展望、自分の専門外にも関わらず豊富な知識。私は何も食い込めなかった。日本酒をなめながらニコニコして、時にはそれっぽく真面目な顔を作って、何も分からないくせにウンウン頷いてみせることしかできなかった。そのときの惨めさ。「十四代」という、日本酒好きならのどから手が出るほど良い酒を、知らないうちに五杯も飲んでいて、それでも、自分の愚かさに全く酔えず、ただただ頭は冴えていた。私は何をしにここに来たのか。就職せず、大学院に来たのはなぜか。研究がしたかったからだ。何の研究をするのだ。具体的に何をするのだ。冷え切った頭で考えても、何から始めてどこへ向かえばいいのかも分からなかった。私はこんな所に来て良かったのか。大学院で研究をする資格はあるのか。「書誌学的な研究だから」と、古今和歌集の中身も源氏物語の本文も詳しく知らない。伊勢物語の成立。諸本とは。系統とは。注釈書の云々とは。筆蹟の研究と言いながら、藤原俊成と定家と坊門局以外の筆蹟は読めない。俊成、坊門局と言いながら、その血筋である冷泉家について何も知らない。研究の仕方もなにもかも、時代が違えば異なってくる。だから具体的には分からないけれど、自分がやってきたことがなんと甘ったれたものなのだろうか、と、本当に絶望した。


私には圧倒的に知識が足りなかった。


 彼氏と帰宅した。電車の中で、「私は研究する資格があるのか。このままでいいのか」と、ポロッとこぼした。この時私は甘えていて、「大丈夫、がんばれ」「好きなようにやったら」というような慰めの言葉を無意識のうちに求めていた。しかし理系の大学院二回生で、私とはいろいろな考え方がまるっきり違う彼は少し考えてから言った。

 

「君の研究が社会にもたらす利益はなに?」

 

 ……

 

 …いや、正直、うるせえ!!!!励ませよ…ころすぞ、、、、と思った、正直。激ヘコみしてる彼女の背中を優しく撫でて絹のようにさらさらと私の心を包み込む言葉を投げかけろよ、と拗ねた。

 その日は拗ねたまま帰った。しかし、彼の言葉は真理である。私は何のために研究しているのだろう。就職に有利だからとか、企業の利益に直結する技術だからとか、そんなものではない。学部時代は「楽しいから」で済んだ。しかし、大学院にまで進み、就職に不利になるような勉強をするのだ。もう趣味では済まない。いや、結果的に趣味の領域に終わったとしても、いま、自分はその心意気で臨んではいけない。「自らの研究が文学史においてどのような役割を持つのか」。これを真剣に考え、その役割を果たさなければならない。彼氏からのクソ辛辣な一言は、絶望だけしていた私に考える力を与えた。ムカつきながらも考えた。そうして出てきたのが冒頭にも述べた「平安後期、鎌倉初期の坊門局の書写活動からみる女性の活躍」というものである。平安、鎌倉初期の社会は、言わずもがな男社会である。女性はひっこんでいる。皇女や御息所以外は名前も出てこない。みんなあだ名である。紫式部清少納言赤染衛門も、私が研究している坊門局も、みんなあだ名である。しかし、あだ名であろうとも名前が残るのは奇跡に近い。坊門局の父であり、「和歌の神」として今に至るまで崇められている藤原俊成には五人以上の娘がいたが、名前が残っているのは坊門局ただひとりであることを見るとそれがよく分かる。女性の強さ。如何なる境遇においても、それを受け入れ、悩みながらも、自身を見失わず生きる強さっていつの時代も、まあ男女関係ないかもしれないけど、今の時代にだって通じるものだよなあ、とかなんとか考えた。もう、メッチャ考えた。他の何も手につかないぐらい考えた。本当に疲れた。褒めて。

 

 書くの疲れてきた。けど、思ってることや不安に感じてきたことを文字に表すと、考えが整理できて楽になるな。

 

 友達のみんなが社会に出て頑張ってるのと同じように、私も私の研究を、少しでも良いものに出来るように頑張ろう。必死で二年間すごそうと思う。

 

 

 

おしまい